小説

 三年も独りで考へて居る二階から、復た叔父さんが下りて来た。叔父さんは流許へ行つて、水道の口から迸(ほとばし)るやうに出て来る冷い水を金盥(かなだらひ)に受けて、それで顔を洗つた。
 叔父さんは手拭(てぬぐひ)で顔を拭き/\勝手に近く居る姉妹(きやうだい)の娘に向つて、
「あゝ、あゝ、これでいくらか清々した……今日は阿部の老爺(おぢい)さんに手紙を書いて、斯う自分の身の周囲(まはり)のことを報告しようと思つてサ……お園(その)さん(亡くなつた甥(をひ)の妻)もいよいよ東京へ嫁(かたづ)いで来たし、節も近いうちにはお娵(よめ)さんに成るし、皆(みん)な動いて来た……その中で自分ばかりは相変らず……なんて、そんなことを書いてるうちに、涙が出て来て困つた……」
 斯う言ひかけて、叔父さんは胸を突出しながら独りで荒い溜息を吐(つ)いた。言葉を継いで、
「でも、俺は未(ま)だ泣ける――さう思つたら嬉しかつた……余計に涙が出て来た……今日は頬辺(ほつぺた)が紅くなるほど泣いちやつた。」
「真実(ほんと)に。」

 一台の馬車が子供等の遊んで居る狭い町中で停つた。お婿さんは外国仕立の新調のフロック・コオト、お娵さんの方は華やかな櫛笄(くしかうがい)で髪を飾つて、一緒にその馬車から下りた。新夫婦は結婚の翌日諸方へ礼廻りをして、午後の一時頃に叔父さんの家(うち)へ来た。
「長ちやん。」
 とお節は車から下りると、直ぐ子供に声を掛けた。
「これが文ちやんだネ。」
 お婿さんは早や子供の名前を聞いて知つて居て、片手に外套(ぐわいたう)を持ち、片手に子供の手を引きながら門の内へ入つた。

 じいさんに続いて降りた者が四人ほどあったが、入れ代って、乗ったのはたった一人(ひとり)しかない。もとから込み合った客車でもなかったのが、急に寂しくなった。日の暮れたせいかもしれない。駅夫が屋根をどしどし踏んで、上から灯(ひ)のついたランプをさしこんでゆく。三四郎は思い出したように前の停車場(ステーション)で買った弁当を食いだした。